【成功の秘訣】私がカメラマンになった経緯

カメラマンになりたい

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カメラに興味を持ったのは中学生の時に行っていた

塾の先生がなぜかベースを弾くかライカの空シャッターをひたすら切っている不思議な人だった。

14歳。カメラってメカメカしててカッケー!!って思った。

それが始まりだった。

高校生になって

とにかくいっぱい撮りたいと思いデジカメを買ってみた。

学校で休み時間とか行事あるごとにめっちゃ撮ってた。

アホみたいに。

カメラのギミック好きから入った私は

写真が好き

ではなくて

カメラが好き』だった。

大学に入学。

まだ18歳の私は

何となく大学に行って

何となく就職して

何となく仕事していくんだろうなと

漠然と生きていた。

18歳だもの。

大学は偏差値相応な理系の大学。

写真は趣味くらいにしか考えていなかった。

せっかくなので写真部に入部した。

大学で写真部に入ったはいいが、部員はみんな知識もなくゆるかった。

漫画かってくらいゆるいバカな大学生活だった

それでも暗室があってモノクロプリントもできて仲間がいてとても楽しかった

バカだけど

偏差値相応の大学ではあったが授業は難しかった。

4年生、頑張っても単位がギリギリ。

就活以前に卒業できるかも危うい状態。

そもそもこのまま就職しても今の専門分野で働いてるビジョンが全く見えなかった。

それならまだ写真撮ってる方が将来のビジョンが見えた。

大学4年生で行き詰まりカメラマンになろうと決意した。

でも、

どうすればカメラマンになれるかわからなかった。

それに、ゆるい写真部だったので1からちゃんと勉強したいとも思った。

そこからはカメラマンになるため専門学校を探し

オープンキャンパスに行って学生課に相談し、自分で奨学金を手配して写真の専門学校に入った。

親を説得したというか、有無を言わせないよう外堀埋めるべく自分で勝手に色々行動した。

専門学校編

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写真の専門学校に入ったことは結果としてとても良かった。

入学前のカメラが好きだっただけの私は

撮った写真が

ただ綺麗なだけで明日には忘れてしまいそうな

『平面』だった。

『奥行き』が全くない。

あることさえ認識できていなかった。

専門学校の2年間はとにかく濃密だった。

今までの人生なんだったんだってくらい頭を使った。

それこそ24時間写真のことを考えていた。

夢の中でも写真を撮っていた。

自分が何を撮りたいのか。表現ってなんだ。

カメラで撮る』から『写真を撮る』にシフトしていった。

1年生は昼間部で通ったが、早く仕事を体験したいと思って昼に働けるよう2年生は夜間部に変えた。

学校を卒業したら地元で仕事を探すつもりだった。需要も考えて商品撮りかなと思っていた。

たまたま派遣の仕事で撮影現場の手伝いなるものを発見して早速応募した。

撮影現場の手伝いとはオフィス家具のカタログ撮影のための家具組み立ての仕事だった。

本当に組み立てるだけ

派遣側のリーダーに撮影現場を経験したくて応募したと話すと、カメラマンチームに話を通してくれて派遣の期間中アシスタントとして扱ってくれた。

運が良かった

アシスタントをさせてもらったカメラマンには色々聞いたし、真剣に教えてもらった。

大手印刷会社の写真部署だったけど、就職考えるなら口は聞けると言って貰えたり

本気でカメラマンやるんだったら東京に行けとも言われた。

間違いなく人生のターニングポイントだった。

アシスタントをやって得た事はとても大きかった。

専門2年生になってすぐの3ヶ月間、

1度も学校行かずに働きに行った価値はあった。

専門2年生の夏休み。

写真を撮るためバイクで北海道を回った

結果、

思いがけずもうひとつのターニングポイントがあった。

あるバンドマンと知り合う。

たまたま行ったライダーハウスにいた彼は翌日近くの祭りに参加するそうだ

1.5トンの神輿を皆で担いで階段を駆け上がる祭りらしい

翌日朝から立つ予定だったから参加しないつもりだった。

朝ギリギリでやっぱり参加することにした

なんで参加したんだっけ?覚えてないや

祭りも終え打ち上げでタダ酒を飲みながら色々話をした

聞くと

東京生まれ東京育ちの元暴走族のバンドマン

彼女とバイクで日本一周中だった

『東京で就職するんだったらライブ撮ってよ』

二つ返事で了承した

そこから10年以上ライブ撮り続けるとは夢にも思わなかった

北海道から帰ってきて就活が始まった。

プロのカメラマンになるには

都内のレンタルスタジオで働く

カメラマンのアシスタントになる

独立

が、王道パターンだった。

出版社や広告代理店が都内に密集しているから自然と仕事が集まるからだ。

受けた都内スタジオは2社。

12人中2人が落ちる面接で落ちて

18人中2人が受かる面接で受かった

なんでやねん。

とは言え、これでカメラマンの卵から幼虫に進化だ。

無事東京で就職が決まり、卒業制作に集中した。

卒業制作は夜中にほぼ月明かりだけの場所で風景を撮ることだった。

初めはただ見えないものが写るのが面白かったから。

そのうち色も変えて不思議なものになった。

不可視なもの。

存在の証明。

それは今も続いている

スタジオマン編

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さぁ、やっと東京。

レンタルスタジオの仕事はカメラマンやモデルがスタジオに来て照明機材を用意したりそれをアシストするのが仕事だった。

モデルや俳優も雑誌やテレビで見るような人たちばかりだった。

目が眩むような世界。まだ現実にいないようだった。

スタジオマンの仕事はとにかく体力と精神力の勝負。

重い機材を運んで朝まで撮影なんて何度もあった。

プレッシャーも理不尽なことも多いから心が繊細な人には難しい仕事だなと思った。

北海道で出会ったバンドマンとの約束を果たすべく

並行してライブ撮影も頻繁に行っていた。

結果、ライブ撮影は良かった。

月2ペースくらいでライブ撮っていて、ツテでイベントを撮るようにもなって

週一以上で撮っていた。

写真は撮らなきゃ上手くならないが鉄則だ。

強制的に撮影の場所に駆り出された。

シャッターだけなら誰よりも押していたと思う。

スタジオマンは大体2〜3年で辞めるものだった。

カメラマンになるのが目的だから長くいても良いことはない

そこからカメラマンとして独立するか、誰かのアシスタントになるか。

詳しくは省くが

ライブカメラマンは仕組み的に上に行くのは難しいと思った

そんなこんなで気付けば2年が過ぎた。

上は辞めない。下はそこそこいる。

業務も慣れたもので使い勝手の良い中堅クラスになっていた。

特に付きたいカメラマンもいなかったので、誰でも良いからアシスタント募集しているカメラマンに付こうと思っていた。

この頃には薄々気付いていたのだが、私は割と器用だった。

人との距離感が付かず離れずで

敵は作らないが味方も作りにくいタイプ。

そんな自分だったから、誰のアシスタントになったとしてもよっぽどじゃなければやって行けるだろうと思った。

タイミングは本当にたまたまだった。

スタジオの先輩の知り合いが付いているカメラマンがセカンドアシスタントを募集していると聞いた。

この頃思っていたのは、

チャンスは準備ができたタイミングではやってこない。

不完全でも もぎ取らねば掴めない

だった。

アシスタントを募集していたカメラマンはバリバリのファッションカメラマンだった。

ファッションなんて撮ったことないし、興味もなかった。

でも、外人モデルを使ってスタジオで撮られた写真はめちゃくちゃカッコよかった。

この人の技術を学びたいと思った。

知り合いの伝手というのもあり、面接をして何度かスポットで手伝いに入って正式にアシスタントになることができた。

後から聞いた話だと落とされそうだったとか。

そりゃ、ライブの写真とアー写しか見せてないしね。

とは言え、これでやっとカメラマンのサナギだ。

アシスタント編

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アシスタント業務はスタジオ業務とは全然違った。

何というか、使っている脳の領域が全然違う。

知っている』と『実践で出来る』は天と地ほどの差があることを知った。

全てが振り出しに戻った気分だった。

人によるけど、アシスタントは大体2〜3年で独立する。

師匠の場合は2年が目安だった。

最初の半年は2人体制で引き継ぎ期間

引き継ぎの半年間はとにかく覚えることだらけだった。

兄弟子は結構な気分屋だったので、ダルいなって思うこともあった。

まぁ、概ね筋は通っていたので自分が悪い。

顔で笑って心で中指

とてもいい言葉だ。

アシスタントになって半年が過ぎた

兄弟子が独立して1人だ

師匠のアシスタント業務は多いほうだった

撮影前日の機材準備、データ管理、セット図の作成、レタッチ、打ち合わせの参加、納品、クライアントやマネージャー、経理とのやり取り

必死すぎてこの頃はほぼ記憶がない

アシスタントも1年が過ぎ

1人で半年必死になれば視界もクリアになる

スタジオでは師匠や兄弟子から指示を出される側からスタジオマンに指示を出す側になっていた

手伝ってくれるスタジオマンにはいい意味で期待しすぎないようにした

これくらい言わなくてもわかるだろう

ではなく

わかってると思うけど、意思疎通のため省略せずに説明しよう

これを心がけた

出来なくても

扱いきれない自分が悪いと思うようにした

イライラしてもいい事ないしね

プロの現場はカメラマン、ヘア、メイク、スタイリスト

それぞれがそれぞれの仕事をする。

大体同じチームで仕事をするのでイツメンって感じだ。

それぞれにアシスタントがいて余裕が出始めると会話が始まる。

当然、作品撮りしようって話になってくる。

独立するまでに作品撮りは必須だ。

営業に行く時、作品集(ポートフォリオ)は名刺代わりだからだ。

順当に進んできた私はタダで出身スタジオを使わせてもらい、師匠の威光で外人モデルを借りてアシスタント同士、優秀な仲間に助けられて作品を撮ることができた。

さて、アシスタントも順調に行き

次のアシスタントどうしようってなる。

師匠も求人を一応かけるが、いつ応募が来るかわからない。

だから、前もって出身スタジオの後輩を懐柔しておくのだ。

自分がスムーズに出るためにね。

うまく後輩を懐柔して何度かスポットでアシスタントに呼んで、顔を覚えてもらい面接を受けさせてセカンドアシスタントにすることに成功した

順当順当

このまま後輩を育てれば2年で独立できる

そう目論んでいたが世の中上手くいかない

後輩が3ヶ月でクビになった

後輩は何というか、『調子いいやつ』だった。

パッと見は出来ているのだが、細かい部分での仕事が雑だった。

集団の中にいた時は誰かが尻拭いしていたのだろう。

アシスタント業務はそうはいかない。

雑な仕事は誰も尻拭いしてくれないから命取りになる。

フリーランスになったら

またお願いします」と言われながら

次からは仕事が来ない。

顔で笑って心で中指を立てられるのだ

クビになってしまったので私の刑期は伸びてしまった。

とりあえず動揺したが開き直った。バイクを買い替えるくらい開き直った(ヤケクソ?)

実はこの時、ぜひアシスタントになりたいと言う人がいることを人づてに聞いていた。

後輩のクビが宣告された日に即行で連絡をとって

アシスタントに引き入れることに成功した。

とても運が良かった

さて、新しい後輩はとても優秀だった

(前の後輩があれだったので余計に)

私の目は完全に曇っていたようだ

今度こそ順調

ついに卒業の日が決まる

2年と半年よく頑張ったと思う。色々あったけど楽しかった。

そう思っていた矢先のことだった

後輩が事故で入院した

本当に独立する1ヶ月前の出来事だった。

後輩は結構なケガをして入院した。いつ復帰できるかもわからない状態だった。

師匠は写真だけでなく動画もやり始めていたので1人では到底無理だ

損得とかではなく師匠に言わせるのも違うと思ったので自分から言った

残ります

師匠の返答は

折角だから独立で、撮影がある時だけ来て欲しい

と言うことだった。

結果的に独立してから軌道に乗るまでのお金の心配が減った。

最後はドラマチックでもなく締まりもないがこれで独立のようだ。

これが私がカメラマンになった経緯です。

まとめ

ここまで読んでくださりありがとうございました。

思えば

自分のことを運が良かったと思っていたのですが、

すべて自分が行動した結果なんだと思い知らされました。

最後までお読みいただきありがとうございます。

これを読んでくださった方のなにかヒントになればと思います。

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